幼い頃から、父親に羽田空港へ連れて行かれ航空機を眺めていた。
別にパイロットに憧れていたわけでもなく、ただ航空機を非常に身近に感じていた。
初めて、羽田空港から航空機に一人で乗ったのが小学校6年の時、伊丹空港行きの日本航空だった。中学に入学したあたりから、アルバイトをしては夏休みに国鉄時代にあった「ワイド周遊券」今でいえば青春18切符のようなもので、東北(秋田・青森)にひとり旅に出るように・・・
だからと言って旅行が好きだったわけでもなかった。しかし、ひとり旅の為目的地までの列車やバスの時間を調べるためには、どうしても時刻表を見るようになり、必然的に交通手段の利用方法を覚えていった。
About me
旅行の仕事は決して好きな仕事ではなかったが、気がつけば旅行会社へ就職し、毎年1年のうち半年程度は海外添乗業務をしておりました。そんな折り、取引先の重役の方から起業することを勧められた。だが資金もなく、結婚もしたばかりで子供はまだ2才という環境であった。しかしその重役を含む数人が出資をすると言い出し、後押しされ会社を設立することになり、なんの苦労もせずJTBやJALの協力のもと、順調に旅行の仕事をこなしていた。一方、1997年に海外のホテル・オプショナルツアー・ディナーショー(ラスベガス・ブロードウェイ等)の鑑賞券販売を中心に営業する、株式会社ビッグハートインターナショナルを設立した。だが2010年日本航空倒産、同時にわたくしも旅行業に終止符を打つ形でビッグハートトラベルエージェンシー株式会社を株式譲渡。その後仕事に対する緊張感は薄れていく。2010年12月ちょっとした仕事で25年ぶりにフィリピンへ渡航することになった。そしてここから私の人生が変わっていった。日本からフィリピンへ行った3日後、マニラ市郊外の高速道路を走行中(時速約80キロ)突然タイヤがバースト、車は蛇行しながら壁に激突し大破。私は後部座席でシートベルトをしていなかったにも関わらず外傷はなし、救急車で病院へ運ばれ肩の痛みを訴えたが異常なしとの診断、セカンドオピニオンをして診察しても異常なしと言われる。この時点で首から肩と腰にかけて傷みがあるが、歩けない状態でもなく普通に会話し食事も取れていた。事故から4日後に付き添いもなく航空機に乗り日本へ帰国、フィリピンではなんでもないと言われても、やはり日本で診察を受けたほうが心配ないので自宅近くの医者へ診察を受けに行った。X線・CT・MRIと首・肩・腰を検査され診断を待つことに、ドクターから呼ばれ診察室に入ると数枚の写真がモニターに貼られ、ドクターから「詳しく検査が必要だが頸椎を脱臼している」と、よく航空機の気圧に耐えられてきたねと質問を受けるも、全く傷みを感じていなかったことを伝えた。問題はここからで、まずこのようなケースの手術をしたことがなく処置ができないと、しかし偶然近くの外科医が手術の経験はあるが、そのドクターが勤務している病院には手術する設備はあるが、他の診療行為を受けることができない、しかしながらこのままの状態ではかなり危険とのことで、検査入院をしながら手術の方法を考える事になった。年末・年始を病院のベッドで24時間寝たきりの状態、一切起き上がることを許されなかった。そして約3週間の検査結果は、
1)第5、第6頸椎脱臼骨折
2)第6、第7、第8胸椎圧迫骨折
3)第1、第2腰椎圧迫骨折と身体中ボロボロ状態、手術は岐阜県羽島市民病院で横浜の主治医が担当することになる。手術前に、ドクターより頸椎にある神経に触れてしまう恐れがある為、車椅子の生活を宣告される。と同時に手術中に死亡することもありうるとまで言われた。
手術約5時間、術後約30日間のリハビリを含み入院との説明を受けた。無事、手術を終え集中治療室で一夜を過ごし、車椅子を必要とはせず、担当医は驚いた様子ではいたが、手術に自信を持っていたのか多くを語らず、さらに術後7日間で退院した。今も年に1回診察を受けている。外見は普通の人間としか見れないが、正直、痛みは今だ取れない。また、首を固定しているため左右を向くも30~40度程度しか曲げることができない状態。
この時から、神仏に守られていたことを感じ、日々感謝の気持ちを持って生活をするようになった。
自分でもあまり口に出して話すことはありませんが、正直「守られている」と感じることは間違いないと。。。。。
大きな愛で地球と人類を包みこみたい